本:『科学哲学への招待』野家啓一 ちくま学芸文庫

タイトルは科学哲学となっていますが、「科学の歴史」「科学哲学」「科学社会学」の三つがセットになった本です。

科学史もいくつか読んだり、科学哲学には『一冊でわかる 科学哲学 』など、読みやすい本があるのですが、最初に全体が見れるこの本を読んでたら良かったのかも。

科学史
科学の歴史では、西洋を中心に、大学や学会や論文といった制度として確立するまでを追っていきます。
科学哲学

科学哲学では「そうしてできた科学の法則は、どうして正しいと言えるのか」が問題になります。

とくに19 世紀から20世紀にかけて、数学と物理学が大きく変化しました。その結果、例えば、それまで空間を数学で記述する幾何学は、ユークリッド幾何学だけしか考えられず、そ れゆえ、それが正しい思っていたのが、その他の方法がたくさんあることがわかりました。それらの中から物理法則で使うものを選び出す理由が必要になるわけです。
論理実証主義

そこで「論理実証主義」という考え方では、論理的に記述できるいろいろなことのうち、感覚的経験によって確かめられた物だけを信じようとしました。(「検証可能」)

デカルトが「感覚は間違いうるから、理性によって知られるもののみを信じよう」としたのとは反対に、「論理ではなんでも書けちゃうから、経験で確かめられるものだけを信じよう」とした感じで面白いです。

経験が真偽を決めるため、ある法則がなぜ正しいのかを議論する哲学の一分野「形而上学」はもう要らなくなります。そこで「形而上学の除去」も目指しました。
論理実証主義への批判

ですが、この考え方は様々な批判を受けます。まず、すべてのものについて経験で確かめることはできない訳ですから、法則の正しさは検証できません。全部調べ ていないのに、真実だ、なんていうのはずるいのです。これは、以前より「帰納」や「経験論」の問題として議論されていたものです。(直観主義も同じパターンでした)

さらに、論理実証主義では、数学や論理は経験とは独立に正しさが決まる、という前提で法則を記述することを考えていましたが、そもそも論理や数学を選ぶ方法も必要な訳ですから、分けて考えるのはおかしい、ということをクワインという人が指摘します。

そして、哲学も数学も科学も、その他の学問も、知識としては相互に関連した連続したものだと考えました。こういう考えを「自然主義」と呼ぶそうです。

そして、経験を説明することのできる体系は一つではないのだから、知識も一つに決めることはできない、と言います。
プラグマティズム
この自然主義の考え方を受けて、科学は人間のすることなのだ、と考える「プラグマティズム」がアメリカに現れます。人間とは関係なく予め決まっている真理なんてない、という訳ですね。

この考え方の対立は、合理論vs経験論、数学的実在論vs直観主義など、いろいろなところで現れるパターンのようです。(実念論vs唯名論も似ています。)

ですが、「人間のすること」だとしても、科学は、いつかきっと真理の世界にたどり着ける方法なんだ、と考える人と、そうでもない、と思う人がいるようです。
パラダイム論

そうでもない、と考える人が「パラダイム論」のクーンです。ある科学の体系があるとき、科学者はその体系の前提に基づいて実験をするわけで、それ以外の経験 は得られません。また、今の体系に反する経験が得られたからといって、いきなり体系自体を捨てたりはせずに、少しづつ手直しをしながら使い続けます。一つ や二つの実験で「今の物理法則は間違っている!」などと言っても、相手にはしてもらえません。

そういう実験結果がたくさん集まってきて、みんながどうも変だな、と思い始めてようやく、新しい体系や確かめる実験を考えることになります。みんなが変だなと思う、というのは社会的な要因に左右されている、というわけです。

別に問題ない気がするのですが、今の体系から次の体系を決める方法に正しいやり方はない、というところが問題になるようです。袋小路に入り込んだり、逆向きに進んだりするかもしれない。それが、「科学は合理的に進歩する」と考える人たちの癪にさわったようです。
科学社会学

というわけで、社会と科学との関わり「科学社会学」が出てきました。

科学の歴史の部分では、科学の制度化までを扱っていましたが、科学社会学の部分では、二度の世界大戦をきっかけに進んだ「科学の体制化」を扱っています。

特 に世界大戦においては、科学との技術の融合により開発された新兵器が必要とされ、科学は応用のための技術と不可分の関係となり、 国家の後押しによって巨額の資金とリソースを使って進められるものとなりました。また、日本ではそれ以前、黒船の時代から、科学は諸国に対抗する力を持つための技術と一体となって取り入れられたと言います。

そうして技術や国家と強く結びつい た結果、科学の方向性や有効性は、科学の中だけでは判断できず、社会の中で様々な要素を合わせながらきまるものとなりました。科学者だけの社会の中で正 しいかどうかを考えるのでは足りなくて、税金を何に投入するべきなのか、するべきではない研究とは何かを、今や社会全体、さらには将来の人類も含めて考え なくてはならなくなっているわけです。
最後に

この本、最初に述べたとおり、科学について歴史と哲学と社会の三つの観点からまとまっていますが、「科学社会学」の部分についてはもっと知りたいと思いました。

ところでこの本では、「科学と技術が融合したのは一次大戦〜二次大戦の間」としています。

ですが、『思想史の中の科学』などを読んでも、ベイコンは科学を利用した自然の改造と支配をとなえていますし、蒸気機関のために熱力学が作られ、治療のために医学が作られ、風車のために空気力学が研究され、水車のためにベルヌーイの法則が見出されています。程度の問題かもしれませんが、科学と技術はずっと融合していたのではないでしょうか。

また、社会との間の関係も、原子論は個人の集合としての民主国家の形成に影響を与え、科学の発展は進歩史観としてヘーゲルからマルクスと受け継がれて、「科学的唯物論」などと言って社会に影響を与え、進化論は社会の進歩の考えから影響を受けているようです。

科学を社会の問題として考え始めたのは「科学社会学」なのかもしれませんが、科学も技術も社会もそして哲学も、ずっと人がすること、人が作るもので、相互に影響を与え合ってきたのでしょう。

そして、元々一つだったこれらのものが、科学の発生によって別々のものとして分離されてきたのですが、いい加減バラバラに扱える状態ではなくなってきた、ということなのかもしれません。

であればこそ、別れた部分だけを扱うようになる前の、アリストテレスなどの古典が今でも意味を持ち続けているのかもしれません。