漫画版 『風の谷のナウシカ』宮崎駿

読んだのはだいぶ前だが、書いてみたくなった。この漫画、前半は映画版をなぞった上で発展をするように進むのだが、後半になって、大きくずれだして、最後には、希望だった腐海による終末戦争の汚染の浄化を無効にし、復帰の希望である科学(墓)の力すら拒否するという、一見わかりにくい物になっている。

初めて読んだとき、しばらく消化できなくて悶々とした。終盤の「否!!」という言葉が印象だけが残ったが、後から見るとても小さなコマだった。しかし、コレは何の話だったのか…。

その、漫画版のナウシカの後半がどういう話だったのか、について書いてみることにする。

なぜ最初は巨大ロボだった巨神兵が、途中で意思を持つ人造生物になったのか。何で腐海が途中で人工的に作られたものに変わったのか。何で粘菌大暴れになったのか。

ポイントはあの「墓」とは何なのか、ということなのだとおもう。

この物語を書きはじめた頃は、人間が欲望と科学の力で破壊し尽くした世界を、自然が生んだ腐海が浄化し、ナウシカが皆を導きめでたしめでたし…。という話だったのだろうか。

しかし、それは欺瞞であることを放っておけなくなったのだと思う。

人間による破壊の解決策として、作者が考え出した虫や腐海。じつは、これこそ、批判すべき対象である、自然や生命を科学の力で思い通りにしようとする発想そのものである。

自分の想像力を誇るかのごとき序盤の腐海の説明こそが、人間の思考の範囲に自然を押し込めるものである。

作者のその苦悩は、作者からの解放を目論んで、目的のない粘菌を実体化させ、たくさんの国々を飲み込ませるが、結局、解決は虫たちに委ねるしか無かった。その後、虫との心中を試みるが、それもうまく行かない。結局、生み出してしまったものの尊厳を回復しない限り、解決することは無かったのだろう。

そこで、腐海や虫を人工物と認め、はじめは機械として描かれていた巨神兵に命どころか心さえ与え、自らの増長と対決させることにしたのではないか。

そのためには、自分をキャラクターの前に差し出さなければならない。願えば、「特効薬」でも「人体改造」でも、ありとあらゆるハッピーエンドを与えられるであろう万能な力を持つ墓。これは、「夢オチ」でも何でも与えうる力を持った作者ではないか。

そして、ラピュタの悪役、ムスカのように言うのだ。ひざまずいて願えば助けてやる。と。

それに対するナウシカの答えが「否!」なのだ。ナメんな、作者だからなんだ!命乞いしてお前の思い通りになんかなるか!と。

そして、風の谷のじいさんから巨神兵から敵国トルメキアのヴ王まで含めた、ありとあらゆるキャラクターが、墓に歯向かう。つまり、ナウシカの最後は、自分が作ったキャラクターに、作者が袋叩きにされる話なのだと思う。そうすることで許されたことにしたのではないだろうか。

であれば、予定調和な話は作れなくなる。キャラクターに作者が解決を用意してやることはできない。

目的からの解放。コレはお供え、消尽ということなのだろうか…。