「本の感想」カテゴリーアーカイブ

漫画版 『風の谷のナウシカ』宮崎駿

読んだのはだいぶ前だが、書いてみたくなった。この漫画、前半は映画版をなぞった上で発展をするように進むのだが、後半になって、大きくずれだして、最後には、希望だった腐海による終末戦争の汚染の浄化を無効にし、復帰の希望である科学(墓)の力すら拒否するという、一見わかりにくい物になっている。

初めて読んだとき、しばらく消化できなくて悶々とした。終盤の「否!!」という言葉が印象だけが残ったが、後から見るとても小さなコマだった。しかし、コレは何の話だったのか…。

その、漫画版のナウシカの後半がどういう話だったのか、について書いてみることにする。

なぜ最初は巨大ロボだった巨神兵が、途中で意思を持つ人造生物になったのか。何で腐海が途中で人工的に作られたものに変わったのか。何で粘菌大暴れになったのか。

ポイントはあの「墓」とは何なのか、ということなのだとおもう。

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『数の大航海』志賀浩二/『小数と対数の発見』山本義隆

スコットランドの発明家、ネイピアによる「対数」の発見という、同じ題材を中心に扱った二冊です。

「対数(log)」は高校の数学で習うと思いますが、指数関数の逆関数で、特に底が10の対数である常用対数は、数の桁数に対応する関数のようなものです。

なぜそれが、何冊も本が書かれるような題材となるかと言うと、「科学のための数学」「ヨーロッパの数学」である「解析学」を作り出すのきっかけとなったからのようです。

二冊のうち、『数の大航海』は数学の歴史の中での位置づける観点が色濃く、対数がその後解析学をどのようにに発展させることになったのか、まで扱っています。

対して『小数と対数の歴史』はタイトル通りの、小数がヨーロッパで使われるようになったことと、対数や科学との関係を主に扱っています。

ヨーロッパの数学「解析」

古典的な数学は大雑把に言って、古代ギリシアの幾何学、アラビアの代数、ヨーロッパの解析の順に発展してきたようです。

アラビアの代数は、相続の計算などお金の計算をきっかけに発展したのに対して、ヨーロッパの解析は、特に占星術のための天体観測の結果を扱うための数学として発展をしたようです。

観測結果は、お金とは違って最小単位(1円)がなく、どこまでも精密にできますが、このような数を扱うための数学が、「解析」となってゆく訳です。

そのため、どこまでも精密に表現をするための「小数」と、その計算(掛け算)を簡単するための「対数」とが、同時に関連しながら利用されることになりました。

対数には、以下のような関係があります。

log(a) + log(b) = log(a * b)

つまり、対数を使うと、掛け算を足し算に変換することができます。そのため、とても桁の多い小数同士の掛け算が、対数の表を引くことと足し算をすることで、ずっと簡単にできるわけです。

そして、実用を目的としているために、必要な桁数を具体的に計算をして決めるテクニックが強化されていったようです。

ところがその対数、実用として役に立つにも関わらず、掛け算や足し算だけでは表現できない、「超越関数」という、それまでの数学からはみ出た性質を持っていました。しかも、それまでも知られていた三角関数のように、具体的に対応するものがありません。

このような抽象的なものに、実際に計算をして数を決める様々なワザで挑んだ結果、小数から実数の概念を生み、級数展開などを使って偏執的に無限に切り刻んで調べる、ヨーロッパの数学「解析」が発展するきっかけとなったようです。

さらに、実用のために対数を「一覧表」にしたために、それが「数同士の関係」としてとらえられ、「関数」の概念の形成にも影響を与えたようです。関数は、どんな計算方法であるかではなく、数が対応さえしていればなんでもよい、より抽象的なものになっていったようです。

さらに、『数の大航海』によれば、負の数の対数の対数を中心にして、複素関数論ま で発展していったようです。

分かっていなかったな…

私は、高校時代(だいぶ経っているのですが)の解析を、微分・積分の式の変形として、何となく代数の延長のように扱っていたようにおもいます。

関数を偏執的に切り刻んでどうなっているのか調べるような解析のイメージは薄く、その後の大学の数学でも、ずっとあいまいなままだったように思います。

こういう動機がわかっていれば、もう少し理解できたのではないか…とか、今更ながらに思いますが、おそらく読んでも理解できなかったのでしょうね…。

『中世の覚醒』リチャード・E・ルーベンスタイン ちくま学芸文庫

中世の哲学、いわゆる「神学」や「スコラ哲学」には、何だかとっつきにくいものを感じていました。そのイメージを払拭できないかとこの本を読んでみたのですが、思った以上に面白い本でした。

中世のヨーロッパははアリストテレスの説が大好きだったようです。それなのに、キリスト教の教えと衝突するその説はそのままではおおっぴらに研究できません。

そのため、あの手この手で、言い訳の説を生み出す側と、それを異端として排除する側の、わけのわからない論争が延々と繰り広げられました。それが、中世哲学だったようなのです。

12世紀ルネサンス

ギリシアを飲み込んで、古代の地中海世界を席巻したローマが東西に分裂したあと、 古代のギリシアの思想は、イタリアを中心とした西ローマからは消え、ギリシアを含む東ローマからは異端として追い出されました。

しかし、それらの知識はアラビアへと渡り、研究をされることになります。イスラム世界では、聖職者でなければ特に制限なく研究をする自由があったようです。そのかわり聖職者の知識には影響せず、時代が悪くなるにつれて、失われていったようです。

そうした古代ギリシアの著作が 12世紀前後に、西欧に流れ込みました。イベリア半島やシチリアで、アラビアの注釈がつけられたそれらが翻訳されたその時代は、「12世紀ルネサンス」や「大翻訳時代」と呼ばれます。その中にアリストテレスの著作が含まれていました。

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『ディープラーニングG検定公式テキスト』翔泳社 日本ディープラーニング協会監修

この本はディープラーニング協会の「G検定」という試験の教科書として作られたものだそうです。(Gはジェネラリスト、だそうです)

人工知能に関する技術的な側面の歴史から、わりと最近の技術の紹介と、今行われている応用の取り組みなどを扱っていて、入門には「ちょうどいい深さ」と「十分な広さ」を持った本だと思います。

ディープラーニングについては、元々のニューラルネットワークがどうして伸び悩んだのか、何がブレイクスルーになったのか、どんな種類があって目的に応じてどんなニューラルネットが選択肢になるのか、など基本的なことが概観できます

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『何かが後をついてくる』伊藤龍平 青弓社

この本は、妖怪という、いないとされているものが、一体どういう風に人々に扱われているのかを、日本や台湾の事例などについて語ったものです。

なぜこの本の記事を書くのかと言うと、「言葉の意味」について考えるときに、「妖怪」が何か示唆を与えてくれる気がしたからです。

語られていることを要約すると、妖怪とは、身体感覚の違和感のメタファーである。身体感覚が個人をこえて人々の中で共有された時に、妖怪として認知される。その際、言葉の独り歩きが重要な役割を果たしている、ということです。

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『心の先史時代』スティーヴン ミズン 青土社

この本は人間の心がどのように発展してきたのかについての本です。心理学の、人の心は「汎用学習機構」「(領域特化型知能)スイスアーミーナイフ」「認知流動性」の三つの部分の発達からなる、という仮説をもとに、人類の祖先がどの段階でどのようにそれらを獲得していったのかを、チンパンジーの研究や考古学の成果に基づいて探ります。

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『数学の現象学〈新装版〉』鈴木 俊洋

現象学という哲学の一分野があります。
「事象そのものへ」というキャッチフレーズが示す通り、人間が実際にしている体験(現象)だけに基づこうとする哲学の手法で、その現象学を始めたのが「フッサール」です。

現象学は、のちにハイデガーなどに、実存などの問題意識を持って引き継がれて行きますが、一方で、フッサールの出発点は数学だった、とも聞きます。

フッサールが生きたのは、カントールやデデキント、フレーゲやラッセルと同じ時代。
この時代、数学とはなにかについての考え方は大きく変わり、公理によって定式化され、論理学は記号論理学になってゆきました。

つまり現象学は、数学とは何か、という議論と大いに関係をするなかで生まれてきたらしい、ということです。

そこで読んだのがこの本『数学の現象学』です。
この本には、フッサールが数学の何を問題にして、どのように考えた結果、現象学が産まれたのかが書かれています。

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『歴史(上・下)』トゥキディデス ちくま学芸文庫

題名が『戦史』とも訳されているこの本は、ソクラテスの時代(紀元前430年頃)にギリシア世界全体を巻き込んで争われた戦争、ペロポネソス戦争について、その時代のアテナイの人、トゥキディデスによって、事実を積み上げるような態度で書かれた歴史書です。

古代ギリシアの本何冊かに手を出した以上、いずれは読まねば、と思っていました。

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2016年に読んだ本-英米の哲学

昨年読んだ本のふたつ目。英米哲学、と呼ばれるものを中心に。

 ウィトゲンシュタイン『ウィトゲンシュタインのウィーン』『ウィトゲンシュタイン』マルコム

哲学の本をいくらか読んでいると、考え方の内容を理解するのも大変ですが、わかってもピンとこないアイデア、というのが沢山出てきます。その理由は、それを生み出した動機や社会環境、それまでに出てきていたアイデアの歴史が見えてない事が原因のようだ、と思えてきました。

そういう意味で『ウィトゲンシュタインのウィーン』は、ウィトゲンシュタインの哲学の動機を想像できるような、良い本だと思います。それは、過剰な装飾やタテマエばかりの、世紀末のウィーンで、人間は本当に何を言えるのか、を本気で考えたということのようです。

そして『ウィトゲンシュタイン』は、ケンブリッジ大学時代の、ウィトゲンシュタインの弟子、マルコムによる「思い出」です。とにかく真面目で真っ直ぐで、少しの妥協も許さない、それだけに、一緒にいるのは大変だとは思うけど、読み進むに連れて、何だかウィトゲンシュタインが好きになるような文章でした。

英米の哲学『一冊でわかるヨーロッパ大陸の哲学』『英米哲学史講義』『プラグマティズム入門』

プラグマティズム入門は、いくつか書きました。

哲学を広く紹介する入門書などを読んでいると、多くの本は「全体」を扱っていないことに気が付きます。

『一冊でわかるヨーロッパ大陸の哲学』によると、現代の哲学は大陸の哲学と、英米哲学(分析哲学)の2つの流れに別れてしまっているようで、そのことが関係しているようです。

(欧州)大陸−英米と名付けられてはいますが、この本で自動車を前輪駆動車と日本車に分類するようなものと言っているように、必ずしも場所ではっきりと分けられるものではありません。

現代の英米の哲学は、フレーゲらが生み出した、現代の論理学を正面から受け止めて、分析哲学という哲学の流れの中心となりました。そして今でも、論理的に言えることはなにか、どこまで言えるのかを突き詰めようとしているようです。

一見、それ以前のホッブス〜ベンサムあたりの流れとのつながりがわかりにくかったのですが、人間が実際に出来ることは何なのか、を重視する感覚は連続しているような気がしています。

『ホッブス』『蘇るリヴァイアサン』『リバイアサン1』ホッブス、『人性論』ヒューム、『市民政府論』ロック

『ホッブス』についてはなんとか書きました。
光文社のリヴァイアサンはまだ1しか出ていません。
ヒューム『人性論』はダイジェスト版です。(人生論ではなく、「人の性質の論」です。)

というわけで、イギリスの哲学への興味が強まり、読んでみたのがこれらです。

近代のイギリスの思想は古代ギリシアのアイデアを直接引き継いでいるかのように感じられました。特にホッブスが、望ましい国家像を構築してみせる様子は、プラトンが『国家』や『法律』で言葉の上で仮想的な国家を作って見せたのを思い起こさせられます。

その後も、近代のイギリスの哲学は、人間の出来ることを問い、その結果としてどういう国や社会を作るべきかを示す、という二本立てで進んでいくようです。

 論理学『一冊でわかる論理学』『言語哲学大全1〜4』『ダメットにたどり着くまで』

後ろの5冊は完全に消化不良です。いつかそのうち、の思いを込めてここに…。『言語哲学大全1〜4』は「言語哲学」という名前ですが、素人的には論理学の本です。ごちゃごちゃした議論が延々と続きますが、言葉できちんと語れることは一体何なのかを、考えているのだということでしょう。

そういう意味でこの流れは、プラトン、アリストテレス以来の哲学の流れの一つなのでしょう。