クオリアがあるのか無いのかが、こんなに問題になるのはなぜなのでしょうか。
ウィトゲンシュタインという哲学者は「xxとは何か」みたいな問いを立てて、「xx」について議論しているつもりになっているから議論が混乱するのであって、「xxという言葉」について議論をするべきなのだ、と考えました。この考えは、「分析哲学」という哲学の方法が起こるきっかけとなりました。
前に出した「カブトムシの箱」の話は、ウィトゲンシュタインが、そんな「もの」は無い、と言うための物でした。脳みそをばらしても、カブトムシみたいに「痛み」が見つかるわけないだろ、という訳です。
※ウィトゲンシュタインは、チューリングとほぼ同じ時代の人で、直接会ったこともあるようです。(ウィトゲンシュタインは一次大戦に従軍、チューリングは二次大戦の暗号解読に貢献)
この人の「論理哲学論考」という本は、重要な哲学書とされています。
デネットいう哲学者は、意識のあるなしは外から見て判断しているんだから、それで十分だ、という意見だと思います。では何で判断しているかというと、「志向的態度」というもので、何かについて考えているように見えればいい、ということでしょうか。
ではこれでおしまい、でいいのでしょうか?
観測できる物理の世界からは、意識やクオリアを直接検出することはできなさそうですが、意識のあるなし、哲学的ゾンビがいるかいないかは、人の解釈次第で変わるものなのでしょうか?
どうも釈然としないものを感じます。
そこで、チャーマーズという哲学者は、意識についてもっときちんと考えないとだめなんじゃないか、としてその問題を「ハードプロブレム」と名付けました。
チャーマーズはゾンビを信じているのではなくて、「ゾンビなんていない」ってどうやったら言い切れるのかをきちんと考えよう、と言っているようです。
クオリアがないと意味が持てない!…と言うには、クオリア自体にいろいろ問題があって、そう簡単ではなさそうです…。