クオリアがあるのか無いのかが、こんなに問題になるのはなぜなのでしょうか。
ウィトゲンシュタインという哲学者は「xxとは何か」みたいな問いを立てて、「xx」について議論しているつもりになっているから議論が混乱するのであって、「xxという言葉」について議論をするべきなのだ、と考えました。この考えは、「分析哲学」という哲学の方法が起こるきっかけとなりました。
クオリアがあるのか無いのかが、こんなに問題になるのはなぜなのでしょうか。
ウィトゲンシュタインという哲学者は「xxとは何か」みたいな問いを立てて、「xx」について議論しているつもりになっているから議論が混乱するのであって、「xxという言葉」について議論をするべきなのだ、と考えました。この考えは、「分析哲学」という哲学の方法が起こるきっかけとなりました。
いわゆる哲学的ゾンビ、の話です。
いくら外見の特徴を観察しても、本当に内面があるのかは分からない、直接の証拠にはならない、ということです。
「クオリア」です。
クオリアは、意識の質的側面のことだそうです。
そして、クオリアが無いから、コンピュータは意味を持てないんじゃないか、という批判もあるようです。ここは、指し示すものが無い、という話でつなげてみましたが…これでいいのかな?