本『中国人の論理学』加地伸行

論理学の話は古代ギリシアのアリストテレスの論理学から始まることが多いと思うのだが、古代中国の諸子百家も、やはり論理学に通ずるような議論をしていた記憶があった。これらには一体どんな関係があるのだろう。論理学は古代のギリシアにだけ生まれたものなのだろうか?という疑問からこの本を読んでみた。

論理学は議論や思考をするときに、「どれが正しいのかを決める法則を知ろう」という発想から出ていると思うが、そのとき二つのことが問題になる。どんなルールが正しいルールなのかと、どんな知識が正しい知識か、ということである。

アリストテレスの論理学や記号論理学では、正しい知識をもとに、言葉や記号を置き換えてゆけば、正しい結論を導き出すことができるルールを見つけ出した。これは形式論という。

だが、知識(言葉や記号の意味)が正しくなければ、どんな推論をしても意味がない。ごみを入れれば、ゴミが出るのだ。

そこで論理学では、ルールについての議論のほかに、記号や言葉の意味についての議論も必要となる。言葉が現実をきちんと表していなければ、意味のある議論ができない。春秋・戦国時代の中国(紀元前400年前後)ではこの方向性に対しての議論を活発にしたようだ。これは意味論という。

# 何だか文章が変なので、少しづつ直してゆきます…。唯名論と実念論、混乱しやすい…。

 

名実の一致。言葉と現実の一致

では現実を表した言葉とはいったいどのようなものなのか…
そこで中国人は、正しい言葉として、特に言葉が現実とピッタリとあっている、ということにこだわったらしい。これを「名実一致」という。それをするために、やたらめったらと分類して、個物に至るまで言葉を分けつくそうとした。

ところが、そうして分類してゆくと問題にぶつかる。

言葉というものは、一つ一つの物だけを指し示すだけではない。固有名詞だけではさすがに何も言えない。そこで、複数のものに共通するもの、「普遍」というものが問題になる。

「これは猫である」といった時に、「これ」はそれが指す特定の物(個物)を指しているとして、じゃあ、この「猫」と言う言葉はいったい何と対応しているのか。すべての猫の集合なのか、複数の猫が共通して持つ性質なのか…。

こういう「猫」の様なものは「クラス」と言って、西洋でも「普遍論争」という議論がされてきた。洋の東西を隔てて、似たような議論がある、ということの様だ。

そしてそこには二つの意見ができる。クラスは、実際にある何者かの名前だとする人たちと、(クラスは実際に存在する、ので、実在概念論、略して実念論)
人間の都合でつけた名前にすぎないとする人たち、(クラスはただの名前。なので唯名論)
である。

個物や分類が好きな中国語の特徴によるものか、古代においては唯名論(クラスは名前程度の物)の方が優勢だったが、春秋時代から戦国時代へと進む中で、法律によって国を治める必要が出てくると、実念論が必要になってくる。

唯名論だと、名実一致にこだわる限り、「法律によって治まる社会」など、その時点では存在してない物を指す言葉は、現実を表していないのだから認めるわけには行かない。

だが実念論であれば、たとえその時点では存在しなくても、理念に合わせて現実を作ることができる。

この結果、法律で国を治めようとする実念論の法家と、唯名論を推し、法律を否定する名家との対立となったようだ。

その後、古代の中国は法律によって国がつくられるようになり、実念論が優勢となって行ったそうだ。

ちなみに、形式論、ルールの方は議論されなかったのかというと、春秋時代の墨家などの技術者集団は形式論の議論もしていたそうだが、中心的な流れにはならなかったようだ。

感想など

さて他にも、革命の際に、どっちの論理が偉いのか、という権力闘争のアイテムになってしまった話とか、いろいろ面白いことが書いてある。どこまで本当なのだろう…という感じはあるが。

が、中国語の分類志向という話には納得感がある。中国語からは分類への強いこだわりを感じるのだ。天安門があれば地安門があり、聞いてわからない時と、見てわからない時に違う言葉を使う。

「はかる」という1つの日本語の読みに、図る、計る、測る、量る…などのたくさんの文字があてられたりする事になるのも、もともと日本語では分ける必要があるとは思っていなかった物に、中国語の分類志向で作った漢字を割り当てた結果なのだろう。

この結果なのか原因なのか、日本語は名実一致どころか、文字と意味と発音の間さえ、結構自在だ。中国語における漢字は、文字と意味と発音が、1:1ではないにしても、もっと強く結びついている。

私は普遍論争というものがピンと来なかったのだが、こう考えるとその理由が少しわかる気がする。おそらく、「名実一致」、「言葉は世界と一致している」、「言葉は世界の法則だ」という思いが、日本語では強くないのでは無いだろうか。

 

この本では「日本人は名をとる」と言っているのだが、「実と名の差分に無頓着」なのではないだろうか。どちらが優勢ということもなく、建前が独り歩きしてみたり、建前はそのままに本音や実態を優先させてみたりを、適当に使い分けているのではないだろうか。

いろいろと推測も多そうだが、おもしろい本でした。