この本は、妖怪という、いないとされているものが、一体どういう風に人々に扱われているのかを、日本や台湾の事例などについて語ったものです。
なぜこの本の記事を書くのかと言うと、「言葉の意味」について考えるときに、「妖怪」が何か示唆を与えてくれる気がしたからです。
語られていることを要約すると、妖怪とは、身体感覚の違和感のメタファーである。身体感覚が個人をこえて人々の中で共有された時に、妖怪として認知される。その際、言葉の独り歩きが重要な役割を果たしている、ということです。
解釈装置としての妖怪
不思議な体験を解釈する場面に、妖怪は現れます。
人を化かす生き物を指す「狐狸狢(こり むじな)」という言葉がありますが、道に迷ったことを後から解釈する際に「キツネ」が現れます。しかし、それは動物のキツネと同じなのかそうでないのかも、あやふやなもののようです。
さらに「ムジナ(狢)」は、穴熊や狸のようなものを各地で適当に指しているもので、ムジナという生き物はおらず、元々あやふやな呼び名なようなのです。(迂闊な話で私はそういう生き物がいるのだと思っていたのですが…)
また、台湾では日本の「むじな」に似た「もしな」というものがいて、いろいろな不思議な現象がモシナのせいにされている様です。「もしな」には形はないのですが、皆が語ることが出来ます。
「もしな」や「ムジナ」は実在していないことは理解していると言われながらも、不思議な体験を説明するための「解釈装置」として現れます。しかしながら、必ずしも皆が同じイメージを抱いているわけではなく、それが何なのかは人によって認識がまちまち・バラバラであることも少なくないようです。
言葉のひとり歩き
また、意味不明な名前が独り歩きすることも、妖怪の一つの重要な要素のようです。
徒然草にでてくる「しろうるり」は、無意味なあだ名としてつけられた「しろうるり」が、後の世に妖怪としてビジュアルのイメージを獲得してしまったのだそうです。
文字の読めない人たちに、意味不明な言葉が妖怪として現れる「化物問答」などというものもあるようです。
一方、言葉が意味がわからないまま伝わった結果、「團十郎(だんじゅうろう)」という歌舞伎役者の名前が、妖怪になってしまったものもあるそうです。
妖怪という言葉
こうして使われているあやふやな者たちを「妖怪」という言葉でまとめているわけですが、水木しげるが、江戸の妖怪画と柳田國男の妖怪話をもとに、図鑑を書いたことで、現代の「妖怪」がキャラクター性を持ったものとして確立した様です。
そのため、台湾には「妖怪」に相当する、一般化された言葉はなく、日本的、異文化的なものとして扱われていて、台湾にある妖怪のテーマパークには鳥居が立っていたりするようです。
「意味のシステム」みたいなものは無いのだろうか
さて、こうして使われいる言葉を、現実と架空、真実と間違い、などの分類で考えていていいのでしょうか?どうも、そうではないような気がしてくるのです。
人は、聴覚、足跡、迷子など、人間の身体感覚に根ざした体験を、語りによって共有しようとします。その際、自分の身体感覚については語らずに、それを引き起こしている「何か」を想定し、それについて語ることになるわけです。
それは共有以前の問題なのかもしれません。ひとかたまりにして名前を付けておかないと、想起は単なるフラッシュバックとなって、自在に思い出すこともできない。操作を可能にするために、まず名付けをする。
そうして、体験が何かの対象を予感させ、名前がつけられ、他人と共有される。つけられた名前を人から与えられると、その対象を見つけずにはいられない。
言葉は一人歩きを始め、人々の間で出力が再入力され、それが語られる場という実態を持ってゆく。減衰して消えてしまわずに、各々が記憶して、それを使って解釈し、それについて考え、何かの際に使う言葉となる。
個々の「しろうるり」や「だんじゅうろう」や「狐狸狢」が、「妖怪」という一般名詞となってゆく過程でさえ、同じシステムが働いているように思えます。
更に、現実の物を指す言葉も、実は同じシステムを使っているのではないかと思うのです。
あるアイデアや言葉は強化されたり、意味を変えて生き残り、別のアイデアは死に絶え、あるアイデアは形式化され計算となり、ある種のアイデアはぼんやりとしたまま生き残り、あるものはキャラクターとなり町おこしに使われる…。
科学的に「正しい」言葉だって、多くの人にとっては直接確認しているわけではなく、よくても伝聞でしかありません。イメージも、科学者と一般では大きく異なり、科学者の間でも体験レベルで一致しているものはないでしょう。
また、「意味がわからないながらも新しい雰囲気を持つがゆえに愛用される」『プラスチックワード』という言葉があるようです。「国際化」「グローバル化」「コミュニケーション」などがそういう語に当たるようなのですが、妖怪とどこか似ていないでしょうか。言葉が独り歩きし、それを使って皆が勝手に自分の解釈を乗せてゆく。場合によってはそれを使って解釈をすることを強いられる。それについて語ることが権威や力を持ってしまう点では、妖怪よりもたちが悪いかもしれませんが。
むしろ、現実を指す言葉や、正しい言葉というのは、実はそうしたシステムの中で何らかの性質を強く持ったものなのではないでしょうか。
そうして思うのは、言葉の意味を、こうしたシステムをモデル化して扱おうとしているものは無いのだろうか。ということです。
言語ゲーム、ミーム、人工生命で言葉の創発、言語の現象学、ソシュールのラング、認知言語学…どこかを掘り起こしたらそういうものに出会えるのでしょうか…。