本『自然とギリシア人・科学と人間性』エルヴィン・シュレーディンガー(水谷淳訳) ちくま学芸文庫

不完全性定理やコンピュータの基礎につながる、カントールの集合論は、無限には、1,2,3 …と続く整数と同じくらいたくさんある「加算集合」と、実数の様にさらにそれよりもずっとたくさんある「非加算集合」があるということを示したそうです。無限にも、「たくさんさ」の間には違いがあるというのです…。

そして、コンピュータの基礎モデルであるチューリングマシンでは、せいぜい加算無限までしか扱えません。つまりすべての実数を扱うことはできないということです。

もしこの世界が実数でできているとすると、人間の知能もコンピュータに扱いきれない性質を使っている可能性があるのではないのか…という疑問が湧いてきます。

また、物理学の理論である量子力学は、物の今の状態や未来をきっちりと一つに決められない、ということを明らかにしました。

だとすると、もし人間の知能がこの性質を使っていたら、決められたことしかできないコンピュータには、できないことがあるのではないか、たとえば人間のような自由な意思を持つことはできないのではないか、という疑問も出てきます。

この本『自然とギリシア人、科学と人間性』は、科学と古代ギリシアの思想、連続性(実数)と原子論、量子論、自由意思、二元論などの間の関係などについて、量子力学の祖の一人シュレディンガーが語ったもので、上記のような疑問への入り口にもなる本だと思いますので、少し内容にふれてみたいと思います。

この本によると、科学は古代ギリシアの時代の考え方を引き継いでいて、世界は実数なのか、自由意思はどうなるか、という問題も、そこから引き継いだ考え方に原因や関係があると言えるようです。

 連続と原子論

ある2つの点の間に引いた線の間には、どこをとっても数(点)がべったりとある、というのが実数ですが、それは、べったりとつながっているという意味で「連続」と言います。

ところが、物がべったりと連続しているとすると、どうやって縮めたり伸ばしたり(膨張したり、収縮したり)できるかがわからなくなってしまいます。そこでデモクリトスが編み出したアイデアが、「原子論」だというのです。

原子論では、つぶつぶが、ベッタリと連続した空間の上に点々とある、と考えます。そうすれば、物の体積が大きくなったり縮んだりする時には、つぶの間が伸びたり縮んだりすれば良いわけです。

ところが、量子力学では単純に考えられるような連続性が否定されました。自然の現象は連続しては起こっておらず、電子や光が2つの場所の間を動いた時に、その間の軌跡の一つ一つの点を連続的に少しづつ通っていった、とは考えられないようです。どこを通ったかを細かく観測しようとすると、ただ通ったのとは別のことが起こってしまう(二重スリット実験など)。連続性というのは、「その気になれば」ほしいだけ詳細化ができる、ということですが、「自然そのものが連続的記述を拒んでいるらしく、」そういうことはできないというわけです。

さらには、各々の電子や光を別々の粒、と考えることもできなくなる様です。飛び飛びに動いているその時々の粒同士が、同じものか違うものか、ということが言えなくなるというのです。

そ うなると、たとえばここにあるコップがずっと同じものなのかは、それを構成している原子の粒一つ一つが同じかどうか、ということではなくなってしま います。では、同じものとは何なのか…。それは「形」だといいます。粒の一つ一つの性質なのではなく、その時々で観測される粒の各々の関係というものが他 にあって、それがある程度保存される、ということですね。

結局、私達の普段の経験から身につけている、連続した空間や、粒子等のモデルを使って物理の世界で本当に起こっていることを理解しようとしても、うまく行かない、ということの様です。

自由意志

この本で触れられているもう一つの問題が、「自由意思」と「二元論」の問題です。

量子力学が出てくるまでは、世界のある時点を完全に知ることができれば、そこから計算して未来がすべて決まる、と思われていました。そして、未来が確実に決まっているのだとしたら、私たちが自由に考えたり行動したりする、などということはできないのではないでしょうか?それが自由意思の問題になるわけです。

しかし、量子力学の出現により、現状をかっちり決めること、そして、決まった現状から未来を一つに決めることは、思っていたような方法ではできなさそうだ、ということがわかってきました。つまり、世界の未来が一つに決まっているから、人間には自由意思はない、ということはできなくなっています。ということは、量子論によって人間は自由な意思を持つことができるのではないか、という期待が持たれるわけです。

しかし、この本ではシュレディンガーは自由意思と量子論の間には関係がないといいます。

量子論により、未来がどうなるかは、ランダムに決まりますが、「自分はでたらめ(ランダム)だから自由なんだ」などとは言えません。自由というのはそういうことではない訳です。だとするのなら、コンピュータ(計算)は決められたことしかできないから自由じゃない、ということにはすぐにはならないと言えそうです。自由意思というのは、単なる決定・非決定の問題ではないようです。

二元論

最後に二元論です。二元論というのは、世界を物理的な世界だと考えると、人間の心との関係がどうなっているかわからないので、物と心の2つの世界があるように思える、という問題のことです。心と物の2つの世界があるということで、二元論というわけです。

この本では、この問題は古代ギリシアから引き継いだ、物と観察者を分けるという、科学に特徴的な考え方から起こっていて、デモクリトスも、意思や意識を原子論でどう扱うかに困っていたのだと言います。そして科学では今もその問題を充分に扱えていないと考えているようです。

そして、量子論以来、観測することが現実に影響を与えてしまうことから、「主体(心)」と「対象(物)」との間の境界が曖昧になったのだ、という考え方が出てきました。

シュレディンガーはそのような考え方には疑問を呈しています。たとえば光を何かの装置で観測する際に、「見られるものと(光)」と「見るためのもの(装置)」のお互いの間で起こる相互作用のうち、どちらかを「主体(心)」というのはおかしい、と言うのです。

粒粒の一つ一つではなく、それらが観測される時の関係に「同じ物」ということがあるように、意志や自由や私、というものも、粒粒一つ一つの動きで語れるものではない、ということなのかもしれません。