『心の先史時代』スティーヴン ミズン 青土社

この本は人間の心がどのように発展してきたのかについての本です。心理学の、人の心は「汎用学習機構」「(領域特化型知能)スイスアーミーナイフ」「認知流動性」の三つの部分の発達からなる、という仮説をもとに、人類の祖先がどの段階でどのようにそれらを獲得していったのかを、チンパンジーの研究や考古学の成果に基づいて探ります。

「汎用学習機構」は、単純な連合学習(Aが来たらBを出す)のような、ごく基本的な学習で、現代のチンパンジーなどもできるようです。

その後、初期の人類は個別の目標ごとに知能を高度化させました。道具の制作・利用や、他人の心の理解、自然や獲物についての知識などです。結果、スイスアーミーナイフ(十徳ナイフ)のように領域ごとに特化した知能の集合となります。

そして最後に、それらの間を自由自在に結び付ける「認知的流動性」という機能を手に入れたことにより、今の人類の知能を獲得していった…。というシナリオです。

領域をまたがる思考のむずかしさ

この本を読んでいて強く感じたのは、「流動的知能」の獲得のむずかしさです。
たとえば、初期人類のネアンデルタールは、精巧な石器を作ってはいても、骨を材料にすることはできなかったり、道具を装飾品とみなしたり、模様を付けたりすることが出来なかったり…。
今の人類にはあまりに当たり前すぎて、なぜできないのか理解に苦しむようなことの獲得に長い年月がかかっているのだそうです。

現生人類が現れてからも、それができるようになるのに、100万年ほどの時間がかかっています。実際にできるようになったのは、ほんのここ数万年のことなのだそうです。これは急激な気候変動に対して、定住化や農耕などを始めたことが影響している様です。

その認知流動性の獲得には、「擬人化」を使った、動物や自然の高度な予測が有効だったようです。つまり、人間理解に領域特化した知能を使って、自然や動物、という異なる領域を理解するようになった結果が、擬人化だという訳です。
何かを入れたら、仕組みと内部状態に応じて何かが出てくるマシンの一般的なモデルとして、人が使われた、ということでしょうか。

認知的流動性はどうやって実装されているのか?

ここからは感想ですが、アーミーナイフの心から、認知的流動性へ、というシナリオには説得力を感じます。

では、その後はやすやすと認知的流動性を発達させきたのでしょうか?

かつて数学でも、違う単位の物を混ぜ合わせた計算をすることは許されなかったと聞きます。
つまり、距離を時間で割った数を速度とする、などということはご法度で、その代わりとして比例算を利用していたようです。

一方で、思いつくまではとても難しいのに、一度思いついてしまうと、程度の差はあれ、誰でも簡単に理解できるようになるようでもあります。
いまどき、自動車の速度表示に悩む人も少ないでしょうし、誰もが服装から何かを読み取ります。

そうして、数学を使った自然理解は科学となり、数学自身も公理と記号計算の形式化されたものととらえられるようになり、計算化は構造主義を通して社会に、認知科学を通じて人間にも適用されているようです。

現代においても流動性の発達は進み続けている、と考えるのがよいのかもしれません。

ではそれを可能にした(不可能にしていた)知能の機能・実装というのはいったい何なのでしょうか…。それはこの本の範囲外ですし、汎用人工知能への道筋は見えていないという指摘があるところを見ると、まだ謎なのかもしれません。

ですが、認知的流動性が汎用学習とは違うことを考えると、物事を(「志向性」によって)ひとかたまりの対象としてみて、それらの関係を学習するのが第一段階としてあるとしても、それだけでは足りないのでしょう。具体的な関係を越えて、本来全く関係ないカタマリ同士の関係を想定する作用が知能の発展の重要な要素だということの様です。

さらに言えば、結び付けも最初から完全に自由なのではなく、足場となるモデルが必要で、それにアーミーナイフのモデルの機能、たとえば擬人化が活用された、ということかもしれません。

では、何が具体的な関係をこえるものなのでしょうか。その一部は「言葉」の利用の効果だったのではないかと思っています。直接認識した具体的な対象を、一度言葉というものに移し替えることで、ありとあらゆるものを、物であれ概念であれ、同じような対象とすることが出来たのではないか、ということです。

だとしたら、今の人工知能はアーミーナイフ状態で、認識された対象を言葉に結び付ける仕組みと、実体験に基づいて理解できる基本的なパターンやモデル、などを組合わせてやることが必要な要素になるのかも…なんて妄想が広がる本でした。