『数学の現象学〈新装版〉』鈴木 俊洋

現象学という哲学の一分野があります。
「事象そのものへ」というキャッチフレーズが示す通り、人間が実際にしている体験(現象)だけに基づこうとする哲学の手法で、その現象学を始めたのが「フッサール」です。

現象学は、のちにハイデガーなどに、実存などの問題意識を持って引き継がれて行きますが、一方で、フッサールの出発点は数学だった、とも聞きます。

フッサールが生きたのは、カントールやデデキント、フレーゲやラッセルと同じ時代。
この時代、数学とはなにかについての考え方は大きく変わり、公理によって定式化され、論理学は記号論理学になってゆきました。

つまり現象学は、数学とは何か、という議論と大いに関係をするなかで生まれてきたらしい、ということです。

そこで読んだのがこの本『数学の現象学』です。
この本には、フッサールが数学の何を問題にして、どのように考えた結果、現象学が産まれたのかが書かれています。

数学とはなにか?

その発端は「実数」にあったようです。

アリストテレス以来数学は「抽象」されたものを扱う学問だと考えられていたそうです。いろんなものが三つあるなかで、「いろんなもの」を無視して、「三つ」を抽象的に取り出したものが数で、それを扱う学問だ、と考えられていたということです。

ところが、実数や、それを扱うための集合論が発展するようになり、「抽象」という概念では間に合わなくなりました。その結果、論理主義・形式主義などが、実数や数学とは何か、という問いに対する答えとして出てきました。

そういう状況においてフッサールは、そうした問題は、数学の枠組みの外で考えるべきだとして、数学から哲学に転向したそうです。そうして、数学は数学者にどの様に把握されているのかの考察をします。

数学者は、1000万個とか、無限個の集合、とか、実際には「これ」として体験できるようなものではないのに、一つの「対象」として扱っている。これはどういうことなのか。

当初フッサールは心理学による「心理主義」で、実際に扱えるくらいの集合から大きな集合がどのように拡張されてゆくかを考えていました。しかし、この方法では直接体験できない大きな数は、「非本来的な」ある種あやしいものとなってしまいます。

こうして、人間はいったいどのようなことをしているのかを正確に把握しようとして、現象学を作り上げてゆきます。

こうした考え方は、のちに数学とは何かについて形式主義と対峙する、ブラウアーの「直観主義」にも影響を与えることになったようです。

志向性

フッサールが重視したポイントの一つが「志向性」でした。

志向性という言葉は「xについて性」などとよく言われるのですが、この言葉の意味がピンときませんでした。アリストテレスの存在論の、属性をぺたぺたつける「存在」と何が違うのでしょう?

しかし、ブレンターノやフッサールを読んでいると、彼らが問題にしている志向性は、「xについて」ではなく、人間が何かを「x」というカタマリとして、取り出して認識してしまう、そういう作用のことを問題にしているように思えます。
「x」がすでにあって、それ「について」語るのではなくて「x」というカタマリにしてしまう作用のほうが問題なのです。
このカタマリは「対象」と呼ばれるようです。

人間は、多様で豊かな現象の世界に生きているように思う一方、それらを一つ一つの対象に分けずにはいられません。

そして、対象としてカタマリにするから、言葉にし、議論し、推論し、わかり合うことがきる。

こういうカタマリにしてしまう作用は、対象が実数だろうが心だろうがネコだろうが、人間の思考に共通した性質と考えられます。心はもとより、全てのネコも、それどころか特定のネコの全ての姿でさえ、直接は体験できないわけですから。

逆に言えば、数学であってもネコと同じなわけですから、フッサールの現象学は、普段の生活の中でどう扱われているかを問う、「生活世界」を重視したものになって行ったようです。

そして、ネコが好きな人も、そうでない人もいるように、対象がどのように現れているかは、人それぞれの主観の「世界」によって異なります。しかし、それらの世界の間でも、ネコという「間主観」的に一致する部分はあるわけです。

「数学とはなにか」という問題における「直観主義」と「形式主義」の対立も、そうした間主観性の世界で統一できない事態の一つだ、というわけです。

志向性と知能

よく見て知っているものでも、いざ描こうとすると、わけのわからない画伯の絵になってしまう事があるように、カタマリとしてしか把握されていなません。ものを描くのも、光の点の集合ではなく、境界線を描いている。

それどころか、無限個の集合などという扱うことすらできないようなものすらひとかたまりにしています。

さらに、カタマリにとらわれているから、カブトムシの箱や、カテゴリミステイクや、テセウスの船、普遍論争などの議論やパラドックスが発生するのでしょう。

心とは何か。山はどこから山なの?「大学」はどこにある?ネコという種は「存在」するのか?…。

私達は志向性による対象化・カタマリ化に大きく縛られているようです。
しかし、だからと言ってカタマリを取り去ってしまっては、思考も推論も議論もありません。

だから、人間にとって志向性とはどういうものなのか、を注意深く記述することが重要なのでしょう。

昨今では、Deep Learingで、写真を見てネコを分類するようなこともできるようになってきましたが、最初のころは「猫の概念を獲得」などと言われていました。

では「3」の様なものを対象として一カタマリにすることが同じようにできるのでしょうか?大学は?集合は?無限は?

さらには、DeepLearing が出す答えは根拠がよくわからず、カタマリにしないまま出た結論は、勘や技能のように、説明も議論もコントロールもできないという課題もあるようです。

汎用的な人工知能を考えるなら、こういう問題を解決してゆかないといけないのかもしれません。