タイトルは科学哲学となっていますが、「科学の歴史」「科学哲学」「科学社会学」の三つがセットになった本です。
科学史
科学哲学
科学哲学では「そうしてできた科学の法則は、どうして正しいと言えるのか」が問題になります。
論理実証主義
そこで「論理実証主義」という考え方では、論理的に記述できるいろいろなことのうち、感覚的経験によって確かめられた物だけを信じようとしました。(「検証可能」)
デカルトが「感覚は間違いうるから、理性によって知られるもののみを信じよう」としたのとは反対に、「論理ではなんでも書けちゃうから、経験で確かめられるものだけを信じよう」とした感じで面白いです。
論理実証主義への批判
ですが、この考え方は様々な批判を受けます。まず、すべてのものについて経験で確かめることはできない訳ですから、法則の正しさは検証できません。全部調べ ていないのに、真実だ、なんていうのはずるいのです。これは、以前より「帰納」や「経験論」の問題として議論されていたものです。(直観主義も同じパターンでした)
さらに、論理実証主義では、数学や論理は経験とは独立に正しさが決まる、という前提で法則を記述することを考えていましたが、そもそも論理や数学を選ぶ方法も必要な訳ですから、分けて考えるのはおかしい、ということをクワインという人が指摘します。
そして、哲学も数学も科学も、その他の学問も、知識としては相互に関連した連続したものだと考えました。こういう考えを「自然主義」と呼ぶそうです。
プラグマティズム
この考え方の対立は、合理論vs経験論、数学的実在論vs直観主義など、いろいろなところで現れるパターンのようです。(実念論vs唯名論も似ています。)
パラダイム論
そうでもない、と考える人が「パラダイム論」のクーンです。ある科学の体系があるとき、科学者はその体系の前提に基づいて実験をするわけで、それ以外の経験 は得られません。また、今の体系に反する経験が得られたからといって、いきなり体系自体を捨てたりはせずに、少しづつ手直しをしながら使い続けます。一つ や二つの実験で「今の物理法則は間違っている!」などと言っても、相手にはしてもらえません。
そういう実験結果がたくさん集まってきて、みんながどうも変だな、と思い始めてようやく、新しい体系や確かめる実験を考えることになります。みんなが変だなと思う、というのは社会的な要因に左右されている、というわけです。
科学社会学
というわけで、社会と科学との関わり「科学社会学」が出てきました。
科学の歴史の部分では、科学の制度化までを扱っていましたが、科学社会学の部分では、二度の世界大戦をきっかけに進んだ「科学の体制化」を扱っています。
特 に世界大戦においては、科学との技術の融合により開発された新兵器が必要とされ、科学は応用のための技術と不可分の関係となり、 国家の後押しによって巨額の資金とリソースを使って進められるものとなりました。また、日本ではそれ以前、黒船の時代から、科学は諸国に対抗する力を持つための技術と一体となって取り入れられたと言います。
最後に
この本、最初に述べたとおり、科学について歴史と哲学と社会の三つの観点からまとまっていますが、「科学社会学」の部分についてはもっと知りたいと思いました。
ところでこの本では、「科学と技術が融合したのは一次大戦〜二次大戦の間」としています。
ですが、『思想史の中の科学』などを読んでも、ベイコンは科学を利用した自然の改造と支配をとなえていますし、蒸気機関のために熱力学が作られ、治療のために医学が作られ、風車のために空気力学が研究され、水車のためにベルヌーイの法則が見出されています。程度の問題かもしれませんが、科学と技術はずっと融合していたのではないでしょうか。
また、社会との間の関係も、原子論は個人の集合としての民主国家の形成に影響を与え、科学の発展は進歩史観としてヘーゲルからマルクスと受け継がれて、「科学的唯物論」などと言って社会に影響を与え、進化論は社会の進歩の考えから影響を受けているようです。
科学を社会の問題として考え始めたのは「科学社会学」なのかもしれませんが、科学も技術も社会もそして哲学も、ずっと人がすること、人が作るもので、相互に影響を与え合ってきたのでしょう。
そして、元々一つだったこれらのものが、科学の発生によって別々のものとして分離されてきたのですが、いい加減バラバラに扱える状態ではなくなってきた、ということなのかもしれません。