「物語」というタイトルなので、軽めなエピソード集かと思って読んでみたら、飛行機を中心にした科学技術史の本でした。
「物語」というタイトルなので、軽めなエピソード集かと思って読んでみたら、飛行機を中心にした科学技術史の本でした。
タイトルは科学哲学となっていますが、「科学の歴史」「科学哲学」「科学社会学」の三つがセットになった本です。
読んだ本について色々とまとめていきたいな、と思っていたのですが、手が回らないというか、文章が下手でうまくかけず、思うようには行きませんでした。
仕方がないので今年読んだ本のうち、印象に残ったものをいくつか並べておきます
古代ギリシアの哲学者、アリストテレスの書いたものの翻訳です。
この本で「心」と訳されているのは、「プシューケー(息)」という古代ギリシア語で、「霊魂」などとも訳されている言葉。訳者は、その使われ方が、日本語の「こころ」という言葉の使われ方が似ていることより、そう訳すのがよいと考えたそうで、それは結構あっているように思う。
クオリアや意識の問題は、科学という考え方それ自体に関係がありそうです。そこで、科学の歴史の本を何冊か読んでみました。
論理学の話は古代ギリシアのアリストテレスの論理学から始まることが多いと思うのだが、古代中国の諸子百家も、やはり論理学に通ずるような議論をしていた記憶があった。これらには一体どんな関係があるのだろう。論理学は古代のギリシアにだけ生まれたものなのだろうか?という疑問からこの本を読んでみた。
論理学は議論や思考をするときに、「どれが正しいのかを決める法則を知ろう」という発想から出ていると思うが、そのとき二つのことが問題になる。どんなルールが正しいルールなのかと、どんな知識が正しい知識か、ということである。
アリストテレスの論理学や記号論理学では、正しい知識をもとに、言葉や記号を置き換えてゆけば、正しい結論を導き出すことができるルールを見つけ出した。これは形式論という。
だが、知識(言葉や記号の意味)が正しくなければ、どんな推論をしても意味がない。ごみを入れれば、ゴミが出るのだ。
そこで論理学では、ルールについての議論のほかに、記号や言葉の意味についての議論も必要となる。言葉が現実をきちんと表していなければ、意味のある議論ができない。春秋・戦国時代の中国(紀元前400年前後)ではこの方向性に対しての議論を活発にしたようだ。これは意味論という。
# 何だか文章が変なので、少しづつ直してゆきます…。唯名論と実念論、混乱しやすい…。
人間と同じような構造(体)を持ったロボットを作り、それに学習・発達をさせることで、「人間」についてもっとよく知ろうとする、「構成論的アプローチ」についての本です。
印象に残った一番のポイントは、「体の構造が脳を作る」という部分。
脳には、体と独立した機能があるのではなく、体との関係で必要となった機能があるはずです。であれば、脳の構造は、実際に出来上がりつつある体を使って作り上げなくてはならないし、そうすればいい。つまり、胎児や乳幼児の段階で、体を使いながらいろいろな関係性を学習をしてゆけばいい、ということです。
脳の配線も人間の体の構造の一部だし、体だって他の部分と影響を相互に与えながら作られていくものなのだから、「生得的な脳の機能」というものを、どこかで線を引いて考えても仕方がないということかもしれません。
学習も、どこかの段階から始まって終わるるものではなくて、人間の構造を形成する、発生や成長の延長なのでしょう。発生や構造化のプロセスを、自分の体、親の体から、外部の環境へとだんだんと広げて自分に取り込んで行くということなら、「完成した状態」というものも無いのかもしれません。
そして、脳の機能が人間の体の形によって構造化されるものならば、人間のような体を持たないものが、人間のような心や知能を持つことはない、というのもこの本の主張の一つになっていると思います。
それでは、人間とは異なる体の形を持つものは、その形(外とのかかわり方)に応じて、人とは異なる心や知能を持つのでしょうか。話をする自動車や、引きこもってネットばかり見ている知能というのはありうるのでしょうか。そしてそういうものができた時に、彼らと対話することが、人間にはできるのでしょうか。それとも、人間と同じものだけを、知能と呼ぶことになるのでしょうか?
英語をはじめとする印欧語では、a や the 等の冠詞を付けたり、付けなかったりすることによって、材質と物体を分けていますが、日本語では、材質を表す言葉も、物体を指す言葉も、言葉の形の上では明確な違いがありません。
このような言葉の違いに対して、「材質と物体を分けていない言語の話者は、その違いを理解していない」と、哲学者の「クワイン」という人は言ったそうです。さて、本当なのでしょうか…。
また、中国語の動詞は日本語(5段活用)や英語(過去形、三人称)などのように、変化をしません。そのため子供はいつも同じ単語を聞くことができるので、中国語が母語の子供は動詞の獲得が早い、という意見があるそうです。さて、本当なのでしょうか?
論理的な推論や物理学では、あらかじめ決められたルールや法則に従って、推論や計算を進めることで結論を導き出したり予測をすることができます。
では、そのルールや法則はどうやって作り出したらいいのでしょうか?
「すべての人間は死ぬ」や、「f=ma」などの、従うべきルールはどうやって見つけられるのでしょうか。
それについて説明しようとしたのが、パースという人の唱えるアブダクションという考え方です。
不完全性定理やコンピュータの基礎につながる、カントールの集合論は、無限には、1,2,3 …と続く整数と同じくらいたくさんある「加算集合」と、実数の様にさらにそれよりもずっとたくさんある「非加算集合」があるということを示したそうです。無限にも、「たくさんさ」の間には違いがあるというのです…。
そして、コンピュータの基礎モデルであるチューリングマシンでは、せいぜい加算無限までしか扱えません。つまりすべての実数を扱うことはできないということです。
もしこの世界が実数でできているとすると、人間の知能もコンピュータに扱いきれない性質を使っている可能性があるのではないのか…という疑問が湧いてきます。
また、物理学の理論である量子力学は、物の今の状態や未来をきっちりと一つに決められない、ということを明らかにしました。
だとすると、もし人間の知能がこの性質を使っていたら、決められたことしかできないコンピュータには、できないことがあるのではないか、たとえば人間のような自由な意思を持つことはできないのではないか、という疑問も出てきます。
この本『自然とギリシア人、科学と人間性』は、科学と古代ギリシアの思想、連続性(実数)と原子論、量子論、自由意思、二元論などの間の関係などについて、量子力学の祖の一人シュレディンガーが語ったもので、上記のような疑問への入り口にもなる本だと思いますので、少し内容にふれてみたいと思います。
この本によると、科学は古代ギリシアの時代の考え方を引き継いでいて、世界は実数なのか、自由意思はどうなるか、という問題も、そこから引き継いだ考え方に原因や関係があると言えるようです。