少し戻って、チューリングマシンにできないことを見てみます。
チューリングマシンは「計算」をきっちり定義したものですが、カードの列で表せるものには限界があるそうで、すべての実数を表すことはできません。
少し戻って、チューリングマシンにできないことを見てみます。
チューリングマシンは「計算」をきっちり定義したものですが、カードの列で表せるものには限界があるそうで、すべての実数を表すことはできません。
言葉や記号の操作が意味を持つための条件をクオリアに求めるのは、クオリア自体についての意見が収集つかないため、なかなか難しいようでした。
そこで、話を少し戻して、意味は進化によってできてきた、という意見を見てみます。それがスワンプマンです。
クオリアがあるのか無いのかが、こんなに問題になるのはなぜなのでしょうか。
ウィトゲンシュタインという哲学者は「xxとは何か」みたいな問いを立てて、「xx」について議論しているつもりになっているから議論が混乱するのであって、「xxという言葉」について議論をするべきなのだ、と考えました。この考えは、「分析哲学」という哲学の方法が起こるきっかけとなりました。
いわゆる哲学的ゾンビ、の話です。
いくら外見の特徴を観察しても、本当に内面があるのかは分からない、直接の証拠にはならない、ということです。
「クオリア」です。
クオリアは、意識の質的側面のことだそうです。
そして、クオリアが無いから、コンピュータは意味を持てないんじゃないか、という批判もあるようです。ここは、指し示すものが無い、という話でつなげてみましたが…これでいいのかな?
論理学の話は古代ギリシアのアリストテレスの論理学から始まることが多いと思うのだが、古代中国の諸子百家も、やはり論理学に通ずるような議論をしていた記憶があった。これらには一体どんな関係があるのだろう。論理学は古代のギリシアにだけ生まれたものなのだろうか?という疑問からこの本を読んでみた。
論理学は議論や思考をするときに、「どれが正しいのかを決める法則を知ろう」という発想から出ていると思うが、そのとき二つのことが問題になる。どんなルールが正しいルールなのかと、どんな知識が正しい知識か、ということである。
アリストテレスの論理学や記号論理学では、正しい知識をもとに、言葉や記号を置き換えてゆけば、正しい結論を導き出すことができるルールを見つけ出した。これは形式論という。
だが、知識(言葉や記号の意味)が正しくなければ、どんな推論をしても意味がない。ごみを入れれば、ゴミが出るのだ。
そこで論理学では、ルールについての議論のほかに、記号や言葉の意味についての議論も必要となる。言葉が現実をきちんと表していなければ、意味のある議論ができない。春秋・戦国時代の中国(紀元前400年前後)ではこの方向性に対しての議論を活発にしたようだ。これは意味論という。
# 何だか文章が変なので、少しづつ直してゆきます…。唯名論と実念論、混乱しやすい…。
今回の、志向性の話もサールによる話です。
「計算機は計算をしているのか」という話と似た話で、記号の意味や指し示すものを外から与えられて、ルールに従って文字をごちゃごちゃ動かしても(統語論)、意味自体を作り出すことにはならないんじゃないの?(意味論)という問いです。
そのポイントとしているのが、記号が何かを指し示すための「志向性」という能力のようです。
中国語の部屋は、サールという哲学者が持ち出した議論です。
この話はよく見るのですが、正直なんだかよくわからなくなる話です。本編にも書いたとおり、一見関係がありそうだが、論理的には関係のないことの様な気がしています。中の人が理解してないのがいけないのなら、理解できるようにすればいいですが、それに意味があるとも思えません。
もしコンピュータが、汽車のおもちゃと同じようなものだとするのなら、それが意味や意識を持つなんてことがあるのか?というお話をしばらくします。
チューリングについての映画だというので、見ておかないと。ということで見てきました。
話の中心は、チューリングが、第二次世界大戦時のドイツの暗号通信システム、エニグマの解読に従事していたという史実をもとにして脚色したもので、それにチューリングテストのアイデアをなんとなく絡めようとした感じ。
チューリングマシンとコンピュータの関係やチューリングテストと人工知能については、こちらの記事を…。
以下はネタバレありです。 続きを読む 映画『イミテーションゲーム』